シンガポールをモデルとして大躍進した中国 内存する巨大な三大リスク

  はじめに  
  

  1 リーカンユーとシンガポールの歴史
     リーカンユーの方針・施策
     マレーシアとの関係
  2 シンガポールの政治・経済
  3 土地のリース制度
  4 工業地帯の開発
  5 新車購入権制度 (COE制度)
  6 年金制度 (CPF制度)
  7 住宅政策
  8 金融政策
  9 イスラム教過激派対応
  10 アメリカ合衆国に対する姿勢
  11 米中の共通点・類似点
  12 中国では人に騙されないこと
  13 女性は、 美人でなければ活躍できない国、 中国
  14 一帯一路に対する提言
  15 繰り返す疫病の大流行
  16 中国三大リスク その1 汚職
  17 中国三大リスク その2 砂漠化
  18 中国三大リスク その3 食料不安
  おわりに

  

 

はじめに

 この小著は、 2015年8月27日、 上海で開催された日中地域交流会で私が講演した内容をベースにまとめたものである。
 三井倉庫に入社し、 1975年4月に26歳で営業課に配属された時から中国ビジネスに大きく関与してきた。 当時の上司が 「これからは中国の時代だ、 中国関連のビジネスを追いかけるべし」 と、 強いアドバイスをしてくれたことが発端である。 したがって、 中国には何度も出張し、 中国から日本への物流業務を獲得する営業活動に注力した。
 1989年、 上海で合弁会社を設立する話が持ちあがり、 その主力業務を検品・検針業務に特化すべしとの私のアイデアが採用され、 その準備を開始した。 ところがその翌年、 突如シンガポールへの赴任辞令が発令され、 同地の駐在員となった。 1990年前後は、 中国より東南アジアが経済的に大きく発展している時代であり、 三井倉庫も例外でなく、 人員の増強と投資の拡大に集中していたことからその一環として、 私もシンガポールに派遣された次第である。 なおその合弁会社は1990年に設立され、 予定通り検品・検針業務を開始した。 その頃はまだ中国で検品・検針業務を開始している企業はなかったが、 数年後には、 日本の同業者の大半が中国各地に進出し、 群雄割拠の時代となっていった。
 シンガポールでは、 1999年12月末まで約10年間駐在員として働きながら、 業務面でもまたプライベート面でも多くのシンガポール人とおつきあいをした。 特にシンガポール政府の方、 シンガポール政府系企業の幹部の方と頻繁に情報交換をしたことは大いに役立った。 一緒にゴルフをし、 会食後の帰りの車中で、 こんなことを聞いてよいのかと思いながら、 裏の話とかシンガポール政府の本心の話などをそれとなく聞き出したものである。 また政府がらみで、 本当に汚職がないのかと何度となく動いてみたが、 まったくその兆しは見られなかった。 リーカンユーの側近の方とも何度も会食しながら情報交換に努めた。

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 1999年末に、 シンガポールから東京本社に赴任し、 その後2001年から2005年まで上海に北東アジア (中国・香港・韓国・台湾) の責任者として駐在した。 2005年に本社に戻り、 海外全体の統括・営業を担当したがやはり中国がメインであった。 2011年より2017年まで6年間、 再度上海に駐在した。
 通算10年間に及ぶ中国滞在中、 特に中国共産党の幹部の方たちと積極的に接触を持った。 ほとんど全員といってよいと思うが、 共産主義者ではない中国の指導者たちである。 私が接触した方は、 皆さん人格者で頭の切れる優秀な人たちであった。 この多くの方から得られた情報は、 シンガポールの時と同様、 表向きのことでなく裏の情報であり、 これが本当であろうと思われることばかりであった。 日本の新聞・テレビ・雑誌では得られない情報が多かったためここにまとめることにした。                           
 先ほど 「共産主義者でない中国の指導者たち」 と書いたが、 補足しておきたい。 共産主義については、 難しい理論は別としてその特質は、 第一に 「労働はお金のためのものでなく、 労働そのものに価値があり、 労働に生きがいを見出すべし、 従って金もうけのために労働者を搾取してはならない」、 第二に 「富を平等に分配せねばならない」 である。 当原則に基づく社会では、 能力の差・意欲の差による貧富の差がなく、 怠け者にメリットがあり、 生産意欲・労働意欲が上がらなくなってしまった。 この状態を改善するために、 時の政権保持者である共産党が、 経済資本主義を導入し現在に至っている。 もともと中国人は、 他人より少しでも経済的によりよくなりたいかつ贅沢したいと考える民族であり、 共産主義は体質的に相容れない思想である。 そういう意味において、 中国人は人間の本能に忠実に生きていく民族であると思われる。 本能に逆らい続けながら生きている、 日本民族とは全く異なる民族である。 人間の本能を否定する共産主義を中国人が信奉するはずがないのである。 共産党という名前の政党が政権を担っているだけであり、 共産党員が共産主義者ではないのである。
 さらにあえて角度を変えて、 付け加えたい。 もともと共産主義理論を確立し唱えたのはマルクスであるが、 彼はユダヤ教からキリスト教に改宗し、 敬虔なクリスチャンであったことから、 争いごとを避けさらには競争を排除することをベースにした、 共産主義理論を組み立てている。 長い人類歴史上の教訓であり、 絶対にやってはいけない行動、 つまり宗教を政治・経済に持ち込んだことから、 共産主義社会が全世界的に破綻していったと考えられるがいかがであろうか。
 ここでまとめたものは、 あくまでも、 私の体験から得られた内容であるため、 多少違和感を持たれるかもしれないが、 意外に知られていない中国の実態というものを知っていただけると確信している。 ほとんどの日本人は、 中国のことを大変誤解していると思われるので、 少しでも理解の助けになればと筆をとった次第である。
 ささやかながら、 シンガポール・中国、 通算20年間の海外駐在の集大成にしたいと考えている。

 

 1  リーカンユーとシンガポールの歴史


 まず最初に、 シンガポール生みの親であるリーカンユーとシンガポールの歴史について述べておきたい。 次項以降の本論が、 より理解しやすくなると思う。

 シンガポール島は、 2・3世紀ごろより、 近隣諸国のいくつかの王族に支配されてきた。 歴史は書物に一部記載されているが、 国の歴史と言われるほどのものではなかった。 1700年頃より、 マレーシア、 ジョホールの王が支配する私有地となって、 人口数十人の漁村であった。 1800年代初頭、 英国東インド会社で書記官を務めていたトーマス・ラッフルズが、 天然の良港であるとしてジョホールの王と交渉の上、 英国東インド会社が主体者となり購入したのである。 当時の人口は150人程度であった。 1824年に英国の植民地となり、 その状況は第二次世界大戦まで続くのである。
 第二次世界大戦中、 日本軍が英国軍を破り約3年半にわたり占領した。 その間、 日本軍の統治は熾烈を極め、 大量殺害の犠牲者は数万人に上ったと言われている。 当時のことを、 リーカンユーは、 「私は日本の占領時代から、 どこの大学が教えるよりも多くのことを学んだ。 日本軍の冷酷さ、 銃、 剣付鉄砲、 それにテロと拷問を目のあたりにした。 日本軍は、 シンガポール人に対し単に従順であるだけでなく長期観点から日本の支配に順応するよう求めていたのである。」 と述べている。 日本の敗戦後、 再度英国の統治を受け植民地となり、 英国連邦の一員となった。 英国による植民地時代、 日本軍による占領時代の経験の後、 彼は 「国として独立し、 自尊心のある国民として誇りのもてる国になるべきだ」 と主張している。 植民地政策であろうと占領地であろうと、 いかなる国からも支配されるべきでなく、 完全なる独立国となるべきだということである。
 彼は、 戦後1945年に英国ケンブリッジ大学に留学し、 1949年卒業後帰国し弁護士として活躍した。 植民地政府から弾圧された労働組合幹部や学生運動指導者の弁護をしながら、 本格的に政治の世界に入っていくことになるのである。 1954年、 彼の主導のもと人民行動党 (PAP) の結成を宣言した。 1957年総選挙で、 PAPが圧勝、 彼が35歳の若さで自治政府の初代首相となった。
 ここで、 私がシンガポール駐在中、 1990年代半ばに彼の側近であった方から聞いたことを紹介しよう。 彼が政治活動に入った当初、 日本をモデルとしてシンガポールを発展させていこうと考えたが、 いろいろ検討の末、 日本並びに日本人はまったく異質の国であり且つ全く異質な民族であると結論付け、 方向転換したとのことである。 その理由は、 まず第一に、 性善説をベースにする全世界で唯一の国であること、 第二に、 企業・個人の主体性を重要視し、 ほとんどあらゆる組織がボトムアップの決定方式であること、 第三に極端な精神論に頼り論理的でないことがしばしばあることである (根性論等)。 彼自身が留学し経験を積んだ英国の法律並びに会計をベースに、 シン

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天然の良港・シンガポール港、世界第2位のコンテね取り扱い量を誇る

ガポール独自の、 つまり彼独自の施策を推し進めていった。 一度は日本をモデルにしようと考えたということは、 ほかで聞いたことも読んだこともないので、 おそらくごく側近の方たちのみに漏らしただけだったと思われる。 日本軍の占領時代にとんでもない目にあわされ、 とんでもない光景を目にしてきたにもかかわらず、 一度はそんな日本をモデルにしようと考えたのはなぜなのだろうかと思う。 逆に日本軍の熾烈を極めた、 とんでもない独裁的占領政策から、 時には内容次第では独裁も必要であるとの考えになり、 彼の根本主義、 後に述べる 「適切なる独裁は正義である」 につながっていったのかもしれない。


 リーカンユーの方針・施策

 その後、 1963年にマレーシア連邦への加盟、 その2年後マレーシア連邦からの追放を経て、 シンガポール国家として、 1965年完全に独立したのち驚異的な発展を遂げていくことになる。 ここで、 政権獲得後の彼の方針並びに施策について、 重要な点を次の通り述べておきたい。

[その1]
 元々彼は、 欧米・日本の自由民主主義に疑問を持ち、 日本人を除くアジア人は個人の利益よりも集団の利益を優先する考え方に慣れていると唱えていた。 生来、 権力者に従順に従う傾向は、 アジアの歴史に深く根差すアジア的価値観であると主張している。 個々人が本当に平等であるべきかと疑問を呈し、 一般大衆は欲望と感情で動くゆえ、 自由民主主義より規律と統制が必要と考えて、 教育と罰則を徹底した。
[その2]
 社会秩序を守るため、 リーダーが強力な指導力を持つべきだと主張している。 ただし彼は 「急がば回れ、 時間をかけて徐々に働きかければ必ず融合していく。」 と言っている通り、 決して急がず着実に物事を進めてきた。
[その3]
 経済やビジネスには信用が最も重要であると考えていた。 「一旦我が国で合意や意思決定がなされれば必ずそれを守る体制を作った。 我が国は投資家にとって信頼できる投資先になった。」 と述べている。 グローバル企業の誘致と同時に自国民の保護主義を排除し、 常に世界規模の人材交流を進め、 競争力をつけさせた。
[その4]
 シンガポール多民族国家であるため、 それぞれの民族の言葉も大事にしているが英語を共通語とし、 学校教育はほぼ全教育機関で英語によることとした。 おかげで現在では、 シンガポール人の8割前後が英語を母国語としているそうだ。 したがって、 英語に長けた人材を簡単に採用できるため、 多くのグローバル企業が同国に拠点を置き、 さらには単なる拠点でなく重要なアジア本部を置く理由となっている。 彼は習近平主席に、 中国のさらなる発展のために、 英語を共通語にするべきであるとアドバイスしたそうだが、 さすがに習近平主席は同意しなかったそうだ。
[その5]
 彼は、 徹底した能力主義・エリート主義で、 優秀な人材を政府機関や政府系企業に集中させ、 国主導型でシンガポール独自の施策を推し進め、 国を発展させた。 そのために公務員・準公務員の給料は、 民間企業のそれよりも高く設定されている。 シンガポール独自の重要な施策は、 政治社会主義・経済資本主義制度、 土地のリース制度、 工業地帯の整備、 COE制度、 CPF制度、 住宅制度、 金融制度、 イスラム教過激派対応等であり、 これらの施策については、 のちの項で詳しく述べたい。
[その6]
 2000年代に入ると、 セントーサやマリーナベイズ・サンズに代表される、 総合リゾート開発に乗り出し、 海外からの観光客や富裕層並びにグローバル企業を招き入れた。

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         シンガポールセントーサ島にあるPORT SIL OSO外観                (戦時中の日本軍の統治状況が展示されている)

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シンガポール セントーサ島への入り口(多くの観光施設が終結している)

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シンガポール マリーナベイズサンズ(総合リゾート開発の代表例)

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シンガポールの代表的観光施設・ゴルフ場

 以上のとおりであるが、 一方で芸術・文学等の文化面を無視してきており、 その結果知的文化面で不毛な国と国民になってしまったともいわれている。 これは、 独裁であることの帰結でもある。
 リーカンユーは、 1990年に首相を引退したが、 上級相、 その後顧問相として政府内で依然として実力を持ち続けた。 彼の後、 ゴーチョクトンが首相となり、 2004年以降彼の長男、 リーシェンロンが首相となった。 その長男が副首相に就任した際、 リー王朝であると国内外のマスコミから批判されたが、 彼は堂々と 「自分の長男は、 同国の副首相に最適であり、 ほかに適任者がいるとでもいうのだろうか?この小さな国には人材が限られている。 優秀であり、 最適であれば自分の長男であろうが副首相にして何も問題ない。」 と、 開き直った。 もちろん、 ゴーチョクトンの後任を前提にした副首相であった。 この発言の後、 批判は収まったのである。 絶対に実行せねばならない、 ここ一番の際には、 自分の信念を徹底的に押し通してきた、 一例である。 2011年の総選挙で野党労働党がほんの少しの議席とはいえ、 かつてない躍進を遂げたため、 彼は当時上級相であったゴーチョクトンとともに政界から完全に引退した。 88歳であった。 2015年3月23日、 91歳の生涯を閉じた。
 リーカンユーは、 現在のところシンガポール以外の国ではそれほど高く評価されていないが、 今後時が経つにしたがって、 その評価が益々高まり100年後、 200年後、 彼の実績が正しく評価され、 歴史に残る政治家の第一人者として、 その名を残すことになるであろう。